2005. 10. 2.の説教より
「 イエス様が愛していた者 」
ヨハネによる福音書 13章21−30節
このところは、21節ですが、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』とありますように、弟子たちの一人のユダが、イエス様を裏切ろうとしていることを、イエス様が弟子たちみんなに対して言われたことが、それも、イエス様が、「心を騒がせ」というのですから、感情的になって言われたものと思われますが、そのことが語られているところとなります。感情的になってと言いましても、私たちのように、イエス様が腹を立ててというのではなく、おそらくは、裏切ろうとしているユダへの嘆き悲しみだったのではないでしょうか。それこそ、できることなら、ご自分のことを裏切らないようにさせたいと願いながらも、どうすることもできない嘆き悲しみがあったのではないかと思われるのです。子育てをされた経験がある方ならば、おそらくは、誰もが大なり小なり経験させていることではないかと思われるのですが、なんとかこういうふうにとか、ああいうふうに育てたいと思いながらも、その願っているようにはなってくれないどころか、どんどん願っているのとは違う方向にいってしまう現実に、どうして良いか分からなくなってしまう中で、居ても立っても居られない思いにさせられることあるのではないでしょうか。こんなことを言いますと、イエス様のようなお方であっても、どうしようもないことがあるとお考えになる方もおられるかもしれませんが、イエス様は、人の自由な思いを、たとえそれが悪い思いであったとしても、力によって押さえつけてまでその自由な思いを奪い取ろうとされるお方ではなかったからではないかと考えられるのです。また、そのような力によって押さえつけようとするところに、神様との良き関わりがあるのかと言えばないのではないかと思われるのです。それは、ともかく、イエス様であっても、今まさに裏切ろうとしているユダの姿を前にして、「心を騒がせ」ないではいられない思いになっていたのでした。
そうしたユダの裏切りのことを弟子たちに言うと、当然のことながら、ユダのことはひと言も言いませんでしたので、弟子たちは、自分たちのうちの誰が、そのようなとんでもないことをするのかわからず、お互いに顔を見合わせるだけだったというのです。22節ですが、このように語られています。「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」イエス様は、どのうしてそのようなことを言われるのだろうか。自分たちの中に、そのような者などいるはずがないとの思いで、弟子たちはイエス様の言葉を聞いたのかもしれません。もし、そのように弟子たちが、イエス様の言葉を聞いたとしたら、受け止めたとしたら、ユダには裏切ろうとしている素振りなどまったくなかったということかもしれません。もし、仮に、そうしたところが少しでも垣間見ることができたとすれば、イエス様の言葉を聞いた弟子たちの視線は、みんなユダのほうに向けられたのではないでしょうか。このユダのことで思い起こすことができる話が、この少し前の12章3節以下において語られています。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」と語られている話です。そのところで、ユダは、非常に高価なナルドの香油をマリアがイエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったことに対して、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言ったというのです。いくらイエス様のためとは言え、一瞬にして使い果たしてしまうよりも、ユダが言っているように、「この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施す。」ことのほうが、私たちの感覚からしましても、合理的で、理に叶ったこととなるのではないでしょうか。私たちでも、その場にいたとしたら、ユダの意見に同意することとなるのではないでしょうか。しかし、ユダがそう言ったのは、「貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」とありますように、別の動機からそのように言っただけだというわけです。もしかすると、三百デナリオンというのですから、今のお金に換算して300万円ほどの金額となりますので、財布を預かっている者としては、さらに、お金を誤魔化す機会ができるとでも考えたのかもしれません。たとえ、そういうことではなかったとしても、別のなんらかの動機から、もっともらしいことを言うということはあるのではないかと思われるのです。逆に言えば、どんなにもっともらしいことが言われていても、必ずしも純粋な動機からとは限らない場合もあるわけです。しかし、そういうことはなかなかわからないのが現実ではないかと思われるのです。また、そうだからこそ、寝食を共にしてきた弟子たちでさえも、ユダが、ほんとうはとんでもない弟子だったことなど、人物だったことなど、ましてやイエス様を裏切ろうとしている人物だったことなど気づかなかったのではないかと思われるのです。とにかく、もっともらしいことを言う人こそ気をつけなくてはならない場合があるのが、私たちの間においての現実なわけです。
そうしたユダとは、まさに正反対のものであるかのように語られている人物がいたことが、23節ですが、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」と語られることによって出てきます。それにしても、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。」という言い方は、聖書の中でもきわめて珍しい言い方と言えるのではないでしょうか。このイエス様が愛しておられた弟子のことについては、21章20節でもふたたび、こういう言い方で出てきます。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である。」どちらも、同じこの過越しの食事の時のことを語ったものとなりますが、とにかく、ユダの裏切りのことと共に「イエスの愛しておられた弟子」のことが語られているわけです。どうしてそのような言い方がなされているのかということについても、その人物とは誰なのかということについても、ハッキリとしたことはわからないとされていますが、おそらくは、この福音書を記したとされているヨハネその人ではないかということが、昔から言われてきたわけです。また、このイエス様が愛しておられた弟子についてですが、20章2節以下を見ますと、「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。」と語られていることから、このイエスが愛しておられたもう一人の弟子というのは、ペトロよりも年若い人物だったのではないかということも言われてきたわけです。
それにしても、どうして、イエス様を裏切ろうとしているユダとの関わりで、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のことが語られているのだろうか、ということを考えてみますとき、イエスが愛しておられたもう一人の弟子というのはヨハネだったのかもしれませんが、同時に、そこにいた弟子たち一人ひとりがまさにイエスが愛しておられたもう一人の弟子だったということを、イエス様を裏切ろうとしているユダもその例外ではなかったことを語ろうとしているのではないだろうかということが考えられるわけです。実際、イエス様は最後の最後まで、どこかで悔い改めてくれることを願っておられたのではないでしょうか。それに、よく言われていますように、イエス様を裏切ることになったのは、ユダだけではなかったわけです。イエス様が捕らえられた時に、イエス様が十字架につけられた時に、ペトロなどはイエス様を知らないと言い、多くの弟子たちは失意のうちにエルサレムの都を去って、郷里へと帰ってしまったのでした。そのような弱さをさらけ出してしまう弟子たちをも、イエス様は愛しておられたことを、それも十把一からげにではなく、あくまでも一人ひとりをイエス様は愛しておられることを、福音書は語ろうとしているのではないかと考えられるのです。そういう意味では、いつイエス様を裏切るようなことをしてしまうかわからない私たちのようなものをこそ、イエス様はどこまでも愛される方なわけです。